防災基礎講座:基礎知識編-自然災害をどのように防ぐか-
1. 流路変更が大規模に行われた盆状沈降の平野における洪水-1947年カスリーン台風による利根川破堤氾濫など
1947年カスリーン台風災害
房総半島南部をかすめて関東東方海上に進んだカスリーン台風は,本州付近に停滞していた前線の活動を活発にしたため,台風の雨に前線の雨が加わって,関東・東北地方に大雨を降らせました.関東山地では総雨量500mmを超える近年にない大雨となったため,関東平野を流れる利根川は大規模に出水しました.中流部の八斗島では毎秒1.7万トンの最大流量を記録し,既往最大である1935年の毎秒1万トンを大きく上回りました.このため9月16日未明,埼玉県・東村地先の新川通右岸堤防が栗橋西方4kmのところで350mにわたり大破堤し,この広い破堤口から利根川の流量の大部分が溢れ出したため,かつてない大洪水になりました(図1.1 1947年の利根川・荒川破堤による氾濫域).
利根川の現在の河道は,江戸時代初期から行われた大規模な工事により人為的に東へ向きを変えられていて,自然の地形には従っていません.平野内に流入した氾濫流は,水は低きにつくという自然の理に従い,付替え工事前の自然状態における大利根の流れを再現し,現河道から離れて古利根川・中川沿いに南下しました.氾濫流入量が大量であったため,途中にある中小河川の堤防を次々と破壊しながら流下を続け,19日早朝には東京都内に流入し,江戸川河口から東京湾に排水されました.洪水の流下距離は60kmに達しました.新川通の左岸低地(群馬県側)も同時刻に渡良瀬川の決壊により浸水しましたが,ここでは平野の傾斜している方向が堤防によって閉ざされた状態にあるので,氾濫水が滞留して浸水深は最大6.5mにも達しました.
新川通の破堤洪水による被害は,死者58人(埼玉51人,東京7人),流失・全壊家屋600戸,浸水家屋145,520戸(内東京105,500戸)という大きなものでした.大河川のつくる広く緩やかな平野内における洪水では,このように大量の家屋損壊が生ずることは稀です.カスリーン台風時に起こった洪水には他に,岩手県一関における北上川支流・磐井川の氾濫(死者数101人),群馬県桐生市における渡良瀬川とその支流桐生川の氾濫(同144人),栃木県足利市における渡良瀬川の氾濫(同162人)があります.これらは激しい洪水流が生じやすい地形条件をもつ山地内・山麓における洪水です.この他,群馬県・赤城山地において山崩れ・土石流による著しい被害が発生しました.群馬県の死者総数は708人でした.
関東平野の地形と洪水
関東平野は地殻運動により,中央が窪むという盆状の沈降を行っています.台地面高度から推定される最近十数万年間における沈降の中心は,平野の中央部(幸手・栗橋付近)にあります(図1.2 関東平野の地形).従ってこの付近では流れが停滞して氾濫が生じやすい地形条件にあります.かつての利根川はこの中流域において乱流し,複雑な河道網をつくっていました.沈降の中心は東京湾にもあり,ここと幸手・栗橋付近の平野中央部とをつなぐ地域で沈降が大きくなっています.利根川はこの沈降の軸に沿って流路をとるのが最も自然な状態です.今回の氾濫流だけでなく,江戸時代から昭和にかけて何度も起こった利根川大洪水は,いずれもこの方向をたどって江戸や東京に流入しました.カスリーン台風時には荒川も熊谷の南で破堤しましたが,洪水はやはり付替え工事前の流路である元荒川を流れて東南に向かい,利根川の洪水に合流しました.
日本の大きな平野の多くは,地殻運動による基盤の沈降が進行している地域に形成されています.沈降が激しいからこそ大きな平野になっているのです.沈降量が大きい平野としては関東平野の他に,石狩平野・新潟平野・濃尾平野などがあります.濃尾平野は西に向かって傾くように沈降しているので,木曽川などの河川は平野の西部に偏って流れ,その結果として川に囲まれた土地が多く出現し輪中を発達させました.新潟平野では沈降の速度が大きいうえに,大きな砂丘列が発達して海岸線を閉ざしているので,その名が示すように新しい潟(内陸に閉ざされた海)が多数形成されました.平野基盤の地殻運動の様式が洪水の様相を決める基本要因の一つです.
利根川の治水と洪水の歴史
江戸時代以前には,関東平野の東半分は東に向かって流れる常陸川・鬼怒川の流域,西半分は南流して東京湾に流入する利根川・渡良瀬川の流域でした(図1.3 利根川水系の河道変遷).江戸に本拠を定めた徳川幕府は,舟運路をつくり,新田を開発し,江戸を水害から守るなどの目的で,利根川の流路を東に向け渡良瀬川と合流させ,台地を開削して常陸川に連絡して鹿島灘に放流する,という大規模な河道付替え工事を1500年代末から進めました.河道拡幅などの工事は明治に入っても行われた結果,この東に向けられた河道が利根川流量の大部分を流下させる本流になりました.しかしこれによって利根川が安定した河川に改修されたわけではなく,しばしば中流部で氾濫を繰り返しました.記録に残る大洪水だけでも1700年代以降の250年間に16回,15年に一度の頻度で発生しています.このため旧利根川低地内には,斜めに横断する数列の洪水防御堤(中条堤など)をつくり,ブロックごとに氾濫をくいとめ,氾濫水を本流や江戸川に導く方策がとられましたが,大きな洪水を防ぐことはできませんでした.
江戸の三大洪水とよばれる寛保二年(1742),天明六年(1786),弘化三年 (1846)の洪水,および明治43年(1910)の洪水はとくに大規模なもので,東京の東部低地にまで広く氾濫が及びました.荒川も同時に出水することが多いので,利根川の氾濫に荒川の氾濫が加わって東京低地は広範囲に浸水しました.なお荒川はかつて利根川の支流でしたが,1629年に現在の河道に付替えられ,利根川から分離されました.1786年の洪水は3年前の浅間山大噴火による泥流・火砕流が利根川に流入して河床を大きく変化させたことが一因になっています.明治43年8月の洪水は明治における最大規模のもので,利根川の中・下流部,吾妻川,烏川,渡良瀬川,荒川など広範囲にわたり氾濫しました.とくに中条堤(栗橋西方20km)の破堤による氾濫流は古利根川沿いに東京まで流下しました.なお,明治になってからの利根川改修は下流部から着手されていたので,この当時の中流部堤防はまだ江戸時代のままでした.43年洪水による関東地方の被害は,死者847,流失・全壊家屋4,917でした.
1947年の利根川破堤
1947年の洪水の最大流量は毎秒1.7万トンで,それまでにわが国で記録された最大規模の出水でした.このため新川通における破堤地点付近では,河川水位が堤防を0.5mも越え,延長1300mにわたりオーバーフローして,最終的に延長350mにわたって破堤しました.このように水位が上昇した原因としては,すぐ下流にある鉄道橋と道路橋による流れの堰き上げ,ほぼ同時刻に出水した渡良瀬川との合流による流量急増の影響などがあげられます.なお,現在の河川計画では,渡良瀬川の洪水は広大な渡良瀬遊水地で一時貯留されて,本流の洪水ピーク時には合流しない計画になっています(図1.4 利根川の流量配分計画). この付近の河道は新川通という名が示すように人工水路で,利根川を渡良瀬川に合流させるために1621年に開削されたものです.堤防の高さは,明治以来何度も改定されてきた計画規模に達しておらず,河川工事がまだ続行中でした.
この当時は敗戦直後の占領下で,米空軍が洪水の航空写真を撮影していました.破堤の50日後に撮影した写真では(写真1.1 利根川破堤から50日後の空中写真),破堤口の先に楔状の細長い池と白く映える砂州が両側面に見られます.池は流入した激しい洪水流の侵食によってできたもので,押堀と呼ばれます.長さは1,000m,最大深さは7mもあり,流れが非常に激しかったかことが分かります.砂州は運ばれてきた砂が流れの側面で堆積してできたもので,その位置と形が示すように自然の堤防です.左方の屈曲する帯状部は以前に利根川本流であったこともある浅間川の旧河道で,現在は水田になっています.旧河道に沿って連続する黒い部分は,やや小高いので集落や林地となっている自然堤防です.これと利根川河道とに囲まれる半円状の部分は浅い皿状の低湿地で,後背低地と呼ばれます.一般に平野内には旧河道・自然堤防・後背低地が分布していて,かなりの起伏が見られます.その高度差は通常0.5~3m程度と小さいものですが,浸水の危険度には大きな影響を与えます.写真中の自然堤防上の家は浸水を免れあるいは床下浸水で済みました.
利根川洪水の進行と被害
破堤による氾濫流はまず後背低地内に激しく流入しました.破堤後約1時間で洪水は後背低地内全域に及び,4時間後には凹地を満水し,ついで南および西に向かって流れ出しました.このように,氾濫流は自然および人工の堤防に支えられて後背低地内にプールされ,水位を高めて堤防の低所を破って次の低地に流入するということを繰り返しながら,平野地盤の傾斜に従い東京湾に向け南下しました.古利根川・庄内古川・中川・元荒川などの低地内河川の堤防は各所で決壊・破堤しました.洪水の主流は次第に東へ寄り,江戸川沿いに進行しました.氾濫流の進行速度は破堤口に面する後背低地内では平均時速5kmという速いものでした.その後は一時貯留を繰り返しながら流下したので,進行の平均時速は洪水域中流部において0.5~1km程度でした.
家屋の流失および全壊は,破堤地点から幸手南方に至る約10kmの区間で集中的に発生しており,ここを激しい洪水が流れたことが分かります(図1.5 利根川の破堤箇所付近における氾濫流の運動).破堤口に面する後背低地内ではおよそ120戸の家屋が流失しました.この皿状の低地から溢れ出た氾濫流が栗橋に集中したため,栗橋町全体で死者18人,流失・全壊116戸という被害が生じました(写真1.2 浸水位の表示).幸手付近には数列の自然堤防が緩やかに屈曲しながら並走しています.これらの間隔が狭くなってきたところで激しい流れが生じたため,破堤口から10kmも下流であったにもかかわらず,80戸もの全壊・流失が生じました.地形的な狭まりの箇所では水位の堰きあげにより洪水の勢力が大きくなる可能性があるので,自然地形の微起伏や道路など人工の地物の配列を調べて,危険を予測する必要があります.この家屋損壊集中域における死者数は全体の2/3であって,それ以外は流れの激しくはなかった他地区の浸水域におけるものでした.増水した川や用水路に転落する,浸水した道路を歩いていて深みにはまる,などがその原因となるので注意を要します.
破堤から2日半後に氾濫流は,埼玉・東京境界の大場川を越え古利根川桜堤に達しました.ここで氾濫流は一時阻止されたものの,米軍の江戸川堤防爆破による排水は間に合わず,9時間持ちこたえた後ついに破堤しました.これにより葛飾区の全域および江戸川区・足立区のほぼ半分の地域が浸水しました(図1.6 東京における利根川洪水の進行).浸水戸数は10万戸を超え,埼玉県のそれを大きく上回りました.勾配の非常に緩やかな三角州域であり,鉄道・道路などの障害物が多いので,洪水の進行は遅く時速0.2km以下でした.流れの一部は上流に向かいました.荒川沿いの地域は地盤沈下により海面下の土地になっているので,湛水期間は最大で半月を超えました.
現在,これと同じ規模の破堤洪水が起こった場合,被害金額が34兆円になるという試算があります.敗戦直後と60年近く経った現在とでは社会的な状況は全く異なりますが,自然の性質や営みは現在も同じです.利根川の破堤はわが国では最大の洪水被害をもたらす潜在的可能性を持っています.
- 主要参考文献
- 地理調査所(1947):昭和22年9月洪水利根川及び荒川の洪水調査報告.
- 科学技術庁資源局(1961):中川流域低湿地の地形分類と土地利用.科学技術庁資源局資料第40号.
- 水谷武司(1987):防災地形第二版.古今書院.
- 埼玉県(1950):埼玉県水害誌.
- 高橋 博ほか編(1987):豪雨・洪水防災.白亜書房.
- 東京都総務部文書課(1947):昭和22年9月風水害の概要.
- 利根川研究会編(1995):利根川の洪水-語り継ぐ流域の歴史.山海堂.
客員研究員 水谷武司