防災基礎講座:基礎知識編-自然災害をどのように防ぐか-
2. 輪中が典型発達した乱流河川の低湿平野における洪水-1976年台風17号による長良川の破堤氾濫など
1976年台風17号の豪雨と長良川洪水
台風17号は九州の南西海上で長時間停滞したため,台風の前面に広がるレインバンドも停滞して,ほぼ南北に伸びる強雨域が出現しました.長良川流域は全域がこの強雨域に入ったため,流域平均総雨量が855mmにも達するという豪雨が降り続きました(図2.1 台風17号による降雨量分布).このため長良川では警戒水位以上の高水位が80時間も継続して,9月12日10時25分,新幹線鉄橋の600m下流の安八町地先右岸堤防が破堤しました.延長80mの破堤口からはおよそ3,400万トンの河川水が流入し,岐阜県の安八町と墨俣町の約17平方kmが浸水しました.この地域はかつての典型的輪中地帯ですが,輪中堤の多くはすでに取り壊されていました.しかし,下流の輪之内町との間に連続して残されていた輪中堤により,氾濫水の流下が阻止されて下流への浸水域の拡大が防がれたことにより,水郷農民の知恵が生んだ輪中の機能が再認識されることになりました(写真2.1 浸水域の空中写真).
濃尾平野の輪中と治水の歴史
輪中とは,水害防御のために集落および農用地を輪形の堤防で囲んだ地域をさし,またその地の住民によって構成される水防共同体をも意味しています.本流と支流に挟まれ先が閉ざされた状態の袋状低地や河川が網状に分流する三角州の中洲によくみられるように,周囲を堤防で囲んで川から隔離している土地は他地域にもありますが,特有の自然的・社会的条件によって典型的な輪中が展開しているのは,濃尾平野を流れる木曾・長良・揖斐の3川下流域です.
濃尾平野は地殻運動により全体として西に傾くような沈降を行っており,また,木曽川の運搬土砂量が最も多いこともあって,平野の西部ほど地盤高が低くなっています(図2.2 濃尾平野の地形と地盤高分布).このため木曾三川の流路は西南部に集まり,かつては縦横に交錯して流れていました.この乱流域に居を構えた住民は,上流側から始まり次第に周囲全体を取り囲む堤防を築いて,水害から集落と農地を守る手段としました.徳川・尾張藩は尾張の平野を木曽川の洪水から守るために,木曽川左岸に右岸よりも高いいわゆる御囲堤をつくって,平野主部の尾張側を守る方策をとりました.このことも自衛手段としての輪中の形成を促す要因になりました.典型的な輪中が形成されたのは江戸時代末期から明治初期にかけての頃で,その総数は約80あり,そのうちの9割が木曽川の西方(右岸側)につくられました(図2.3 明治末期における輪中分布).
木曽三川は東から木曽川,長良川,揖斐川と並んでいますが,西ほど地盤高が低いので揖斐川の河床は木曽川の河床よりも2~3m低くなっています.このため木曽川の洪水が長良川へ,ついで揖斐川へと流れ込んで頻繁に氾濫を繰り返していました.この三川を分離する工事が江戸時代から行われましたが(薩摩藩が行った宝暦治水が有名),完成したのは明治末期のことでした.木曽川左岸に連続する延長48kmの御囲堤は例外として,現在のように河沿いに連続する堤防がつくられるようになったのは明治に入ってからのことです.それまでは河を閉じ込めるのではなくて自らを囲い込む輪形の堤防が中心でした.このような輪中堤は一般に不完全なもので,木曽三川の氾濫による水害を頻繁に被りました.江戸時代において輪中堤の破堤を伴った水害は1~2年に1回,明治期には2~3年に1回の頻度で起こっていました.明治における最大の水害は明治29年(1896年)のもので,今回破堤した森部輪中など3輪中を除きすべて破堤・浸水を被ったとされています.輪中地帯における破堤洪水の最近の例としては,1959年の7号台風および伊勢湾台風による多芸輪中の洪水があります.長良川の破堤洪水では,1952年のダイナ台風による高須輪中の洪水があります.
1976年の長良川破堤洪水
1976年の長良川・安八町地先における破堤地点では,大雨の降り始めから4日目の12日朝,堤防にクラックが発見されたので,堤防のり面の崩壊を防ぐ杭打ち作業が水防団によって行われました.しかし10時25分決壊が始まり,やがて破堤口は80mに広がりました.流入した氾濫水はまず直面する輪中の凹地を満たし,ついで自然堤防の低所などを越えて浸水域を拡大させていきました.地盤高にあまり差はないので上流方向へも同時的に進行しました.下流方向では,破堤地点から2kmのところにある輪中堤が浸水域の南限になりました.このため浸水域は上流側に拡大し,破堤地点の上流5kmまでの,揖斐川と長良川とに囲まれる地域が,最大3mの深さに水没しました.
この浸水域にはかつて6輪中がありました(図2.4 浸水域の地形と旧輪中).その輪中堤の多くは戦後の土地改良事業や道路整備によって取り壊されて連続性を失っていたため,浸水域の拡大を許すことになりました.しかし,南に隣接する輪之内町との間に残されていた海抜高9mの福束輪中堤はその役割を立派に果たして,下流域への氾濫拡大を防ぎました.この輪中堤は県道によって2箇所カットされていましたが,そこにはなお水防資材倉庫が設置されており,水防団や地元住民による土のう積みが間に合いました.氾濫水が到達したのは破堤から5時間後のことでした.この輪中堤がなかったなら,ゼロメートル地帯に続く下流低湿地へと浸水域は大きく広がったはずです.しかし一方,これは上流地区へと浸水域を拡大し,浸水の深さと期間を大きくする結果をもたらしました.輪中地帯に限らず,洪水災害では必ずといってよいほど地区間,上下流間の利害が相反します.
氾濫域の地形と洪水の様相
輪中堤は自然堤防をつないでつくられています.自然堤防とは洪水が自然状態の河道から溢れ出すときに,その側面に粗い砂質物を堆積させてできた堤防状の高まりです.この地域は木曽三川が乱流していた広い氾濫原の中央部にあたり,比高1~3m程度の自然堤防がよく発達しています.地盤高は高いところで8~9m程度です.洪水ピーク時の浸水位は7.4mであったので,自然堤防上では浸水を免れたり,あるいは床下浸水程度で済みました.空中写真で浸水域中に黒く浮き出ているところは樹林や集落であって,これはほぼ自然堤防を示します.(写真2.2 破堤箇所付近の空中写真)旧森部輪中は線状に黒く見える部分をつなぐことによってその形を復元できます.西方にはかつて揖斐川の本流であったこともある旧河道とその両岸に沿う自然堤防が明瞭に認められます.
破堤は地盤高が最も低いところで生じています.災害前にはこの内側(平野の側)に小さな池がありました.これがかつての破堤によるものか,あるいは河水の浸透によるものかは分かりませんが,いずれにせよ浸透が生じやすい地形および地層条件にあると考えられます.新幹線の変電所は地盤高の最も低いところに設置されていたので,盛土はしてあったものの2mの深さに浸水し,復旧に2ヵ月を要しました.大電機工場もやはり低いところにつくられていて大きな浸水被害を被りました.
氾濫域の拡大速度は破堤口に直接面する低地内においても,中央が浅く窪んでいることもあって,平均時速2~3kmと人がゆっくり歩く程度の速さでした.2km離れた旧森部輪中北端に達したのは1.5時間後,南方2kmにある福束輪中堤(浸水域南縁)に到達したのは,途中に旧輪中堤があるのでおよそ5時間後でした.大河川中・下流部での洪水は,速くても人が普通に歩く程度の速さですから,破堤地点との距離から到達時間を目算して,余裕ある行動を行うことが望まれます.避難を行う前に,ガスボンベの元栓を閉め,電気のブレーカーを切り,家財を高いところに上げるなど,被害を小さくする対策をとる余地がありえます.ただし,氾濫水の前面は白い波の輪のようになって水田面上を押し寄せてくるので,実際以上の速度を感じます.この破堤洪水は日曜日の午前であったことも幸いして,避難の遅れにより人の被害はありませんでした.近くの堤防などに避難するには時間がかかりすぎるような広い低地内には,中層コンクリート造の公共施設を配置して,緊急避難場所として利用できるようにしておくことが望ましいでしょう.
長良川では,1960年8月の既往最大流量に基づき,計画洪水流量を毎秒7,500トンと定め,主として堤防のかさ上げにより一応の工事が完了していました.今回の最高水位は堤防の高さよりも2m以上低かったものの,非常に長時間高水位が続いたため,河川水の浸潤によって盛土堤防の支持力が失われ,破堤に至ったものと考えられます.堤防などの治水施設があっても,その機能にはおのずから限度があります.洪水に対して非常に脆弱であるという土地の性質をよく認識し,破堤氾濫は起こりえるものとして,浸水しても被害を大きくさせない土地の利用や住まい方によって備えておく必要があります.
輪中の機能を活かそう
輪中は多重的手段で洪水から自己を防衛する水郷農民の知恵です.地区への河川水流入を防ぐ輪形の堤防がまずつくられますが,これが突破された場合に備えて,盛土や石積みによって一段と高くした敷地に水屋と呼ばれる別棟を建てて,倉庫および避難所としました.一般の住家も屋根裏の桟を太く床板を厚くして,避難所や物置として使えるようにしました.洪水流の衝撃を弱めるために,家の周囲を樹林・竹やぶ・石垣などで囲みました.竹やぶの竹は水防資材として利用できます.1階の床は高くして床上まで浸水しないようにしました.軒下や土間の天井には上げ舟とよばれる舟を吊り下げ,避難用としました.敷地を高くするために周囲の低地から土をとって盛土が行われ,その跡が集落の周りの堀として残りました.共同の水防活動や被災した場合の相互扶助のしきたりもつくられていました.
輪中という水防共同体は,土地の水害脆弱性についての共通認識の上に成り立っています.かつては孤立した自然のなかで,自らの努力で自らを守るという気概が養われていました.しかし,新幹線・高速道路の建設や大工場の進出が行われ,昔は渡し舟を使って越えていた大川に立派な橋がかかり孤立状態は解消されて,運命共同体的な意識は薄らぎ,社会的な意味での輪中は崩壊していました.輪中は排他的な側面を持ってはいますが,その良い面は取り入れて,コミュニティの災害防備の態勢を高めておくことが,洪水に対して非常に脆弱な地域では必要です.
- 主要参考文献
- 安藤萬寿男(1988):輪中-その形成と推移.大明堂.
- 建設省国土地理院(1975):土地条件調査報告書(濃尾地域).
- 小出 博(1970):日本の河川.東京大学出版会.
- 国立防災科学技術センター(1977):1976年台風第17号による長良川地域水害調査報告.主要災害調査第12号.
- 水谷武司(1987):防災地形第二版.古今書院.
- 日本科学者会議編(1982):現代の災害.水曜社.
- 高橋 博ほか編(1987):豪雨・洪水防災.白亜書房.
客員研究員 水谷武司