防災基礎講座:基礎知識編-自然災害をどのように防ぐか-
17. 地震による被害を著しく拡大し壊滅的にする市街地延焼火災 -1923年関東大震災,1995年兵庫県南部地震など
地震大火は日本の宿命
1923年(大正12年)の関東大震災は,被害規模および社会経済的インパクトの大きさから見て,世界の自然災害史上で最大の災害であったと判断されます.このような大災害を引き起こした主因は,言うまでもなく本震の後に発生した大火災です.東京市(15区)における住家全潰はおよそ1.2万棟であったのに対し焼失は約22万棟で(戸数あるいは世帯数では約30%増),焼失面積は市域総面積の44%に及びました(図17.1 関東地震による東京市の火災域と出火地点).死者の総数約6.9万人の95%は火災によるものでした.横浜市における被害は,住家全潰がおよそ1.6万戸,焼失が6.3万戸で,市域の26%が焼失しました.横須賀市では4,700戸が全焼しました.
関東地震時の火災は特に巨大規模でしたが,日本では大地震の際に必ずと言ってよいほど大規模火災が発生しています(表17.1 主要地震火災).1995年の阪神大震災による神戸市における住家全焼7,121棟は,関東大震災に次ぐ規模でした.日本の家屋の大半は木造です.植物繊維で構成されている木材は,軽くて粘りがあるので耐震性に優れているものの,一方燃えやすいという欠点があります. 従って,家屋が密集する市街地において出火しひとたび延焼火災に発展すると,大量の家屋焼失が生じます.倒壊だけであればかなりの財産は残りますが,火災になればこれは全く失われます.地震大火は木材が容易に入手できる湿潤地帯(樹木気候地帯)における宿命です.これに対し乾燥地帯では,レンガ(アドベとよばれる日干しレンガが多い)や石材を積み上げた家が多く,地震によりこれらが完全に潰されて多数の人が生き埋めになるという被害形態が主になります.火災は発生したとしても大規模延焼にまでは至りません.
地震火災の特徴
地震時の火災は,同時多発による消防力分散,建築物・構造物の倒壊や道路損壊による通行障害,消火栓や水道管の破損による水利不足,大量の自動車通行による交通渋滞などの要因が複合して消火活動が大きく阻害され,延焼火災に発展しやすいという性質があります.火災の大部分は建物倒壊や建物内での転倒・落下物によって生じるので,本震の後の短時間内に一斉に出火し,その件数は建物倒壊数に比例して増大します.常設の消防力はこのような異常事態に対処できる態勢にはなっていません.阪神大震災時の神戸では,直後の出火62件に対し出動可能ポンプ車隊は28と半分以下でした.消防施設の被災や署員・団員の参集不能という状況も起こります.出火現場へ到達するには道路利用が不可欠ですが,これは道路の亀裂・陥没・崩壊,落橋,建物の倒壊など,および大量の自動車が一斉に動きだすことによる渋滞によって,大きな障害を受けます.神戸では極端な渋滞により,周辺地域,遠くは首都圏からも駆けつけた消防車両などは被災地に近づくことが全く不可能でした.この大量通行車両の95%は緊急性のない一般車でした.常設消防力の手がまわらないとすると,あとは地区住民の消火活動に委ねられることになります.しかし,強い震動による被災や恐怖などにより,震度が大きいほど住民の初期消火率は低くなります.かくして出火の多くが延焼に至り,折悪しく風が強いと大火災に発展します.
江戸の街は昔から頻繁に大火に見舞われてきました(これは京都や大阪なども同じです).徳川家康の江戸城居城は1590年ですが,この時以来1907年までの約300年間に大火と称せられるもの(焼失数百戸以上)が110回も記録されています.1601年にはすでに市街がほぼ全焼するという大火が起こっています.最も大きなものは明暦の大火(1657.1.18,別名振袖火事)で,焼失面積2,570ha,死者およそ7万人でした.関東大震災による火災は更に大きく,焼失面積は3,836haでした.これは世界で最大の規模の火災(一般の火災も含む)です.なお,意図的に燃やそうとした空襲は対象外ですが,1945年3月10日の東京大空襲による焼失面積は4,300haでした.外国における最大の火災は,1906年の地震(M7.7)によるサンフランシスコの大火で,焼失面積は1,220haでした.
関東地震による東京の大火
相模湾北部を震源とするM7.9の関東地震は,9月1日の午前11時58分に発生しました.東京は震源から70kmほど離れており,山の手台地面で震度5強,荒川低地で震度6(局地的には震度7)の揺れでした.ちょうど昼食時のことで多くの火源があり,地盤が悪いために建物倒壊が多かった荒川や神田川の低地を中心に,市内全体で97箇所から出火しました.住家倒壊率と出火率とは比例的な関係にあり,この東京の出火率は他の地震時のそれよりもやや高いという規模のものでした(図17.2 住家全壊率と出火率との関係).出火原因は,かまど47%,七輪14%,火鉢10%,ガス9%,薬品25%などでした.この出火原因は時刻・季節や生活様式を反映しており,神戸では電気関係39%,ガス関係18%,電気+ガス11%と,全くの様変わりになりました.薬品はいつの時代にも主な出火源の一つで,関東震災後にはこれが特に重要視されました.
市内における出火98のうちの27(1/4強)が火元付近で消し止められ,残りの71が延焼に発展しました.飛び火による火元は45で,うち4が消し止められ41は延焼に至りました.結局延焼火元は112箇所でした.この多数の延焼域は合流して火流をつくり,58の火系となって市域の半分近くを焼き尽くしました.延焼の状況は気象および市街地の条件によって決められます.当日の朝,弱い台風が若狭湾に抜け日本海を東北東進していました.また,東海地方で発生した副低気圧が東京の北を通過し,午前10時ごろには短時間の強風雨がありました.このように当日はかなりの荒れ模様で,地震発生時には秒速10mほどの強い南風が吹いていました.この風によりまず北の方向へ延焼が進行しました.午後5時ごろになって風向は急速に西方向に向きを変え,9時ごろには強い北風になりました.麹町の中央気象台では22時に秒速21mの最大風速を記録しました.この北風は徐々に弱まり2日8時ごろ一転して南風に変わりました.秒速15mを越える強い北風は2日の1時ごろまで続いたので,これにより延焼域は南方向に大きく拡大し,夜半までには最終的な焼失域の90%ほどがすでに火災域に入っていました(図17.3 関東地震による東京の火災の拡大経過).完全に鎮火したのは3日の8時ごろですが,被害の大勢は1日のうちに決まっていました.
このように風が強くその風向が大きく変化したことが焼失を大規模にした要因の一つです.1855年の安政江戸地震では起災火元が66箇所あったものの,風は穏やかであったので延焼はわずかで,焼失域が1923年の1/20ほどで済んだのと対照的です.延焼の速度は毎時300~400mの場合が多く,最大で800mでした.風速が秒速10~15m程度であったことは飛び火の距離を大きくして延焼速度を大きくすることにつながりました.大川(隅田川)を越える飛び火も4箇所で生じました.風速が非常に大きいと火炎は地を這うようになって大きな飛び火が起こりにくくなります.
火流は48の火系をつくって進行したのですが,日本橋・京橋を焼いた火系はそのうちの最大規模のもので,全体の1/10の面積を焼失させました.これは日本銀行近くの本石町の2箇所から地震直後に出火し,南風によって毎時200~300mの速度で北方向へ延焼し,神田川近くに達した17時ごろに風向が変わったため南に向きを変え,進行速度を毎時400mほどに速めて零時ごろには京橋川(銀座地区の北縁)に達しました.これにより東は大川,西は鉄道高架線までの範囲が燃え,日本橋区の大部分が焼失しました.午後2時ごろ京橋区八官町で起こった火災は東進して銀座を,続いて築地を焼き,21時ごろ大川を越えて飛び火し,川で分離されていたはずの月島地区を焼失させました.これは3番目に大きな火系でした.本所・深川は17時ごろまでの南風で大半が焼失しました.
被害を巨大にした火災旋風
最大の惨事は本所区の被服廠跡における火災旋風によって引き起こされました(図17.4 東京における火災旋風).これは16時過ぎのことでした.本所区ではかなり急速に火災域が拡大したので,火の手を逃れてこの7haほどの空き地におよそ4万人の人が多量の家財とともに密集状態で集まっていました.16時には北,東,南の3方向から火が迫ってきていました.やや強い風が西方の開けた大川方向から吹いていました.このような状況のもとで,最大風速70m/秒と推定される“国技館ぐらいの大きさ”の旋風が発生し,高温・一酸化炭素・強風などにより,3.8万人の死者(周辺域を含む)がでました.市内全域では110ほどの旋風が発生しました.明暦の大火でも死者1万という旋風が起こった形跡があります.被服廠跡以外の死者数は2万人ほどですが,この大半は橋の袂や池・川で集中発生しています(図17.1).これらが生じたのは1日の夕刻までの間のことです.焼失区域にあった橋353のうち270は焼失あるいは破壊されて,避難を大きく妨げました.また,避難者が運び出した家財に火が移って犠牲者を多くしました.
横浜でも火災旋風が発生しました.その数は約30で,うち6が猛烈であったと記録されています.横浜における焼失世帯は6.3万で,被災率63%は東京市とほぼ同じでした.これに全壊の世帯を加えると被災率は83%になり,東京をかなり上回る被災規模でした.焼失面積はおよそ1,000haで,横浜埠頭に面する中心地区や外人の住む山手地区にも火災は及びました(図17.6 関東地震による横浜の火災域).
延焼の阻止および拡大要因
東京の大火災は市域の半分近くを焼いて3日朝にやっと終息しました.延焼を阻止した要因(焼け止まり要因)は,崖及び広場30%,風向が道路に平行17%,バケツその他15%,樹木12%,消防隊11%,風上7%,海・大河4%,破壊消防2%などでした(総延長に対する割合).人為的な消防活動によるものを合わせると28%になり,神戸におけるそれの14%に比べかなり大きな値です(図17.5 延焼阻止要因).バケツなどによる消火は住民の活動によるものですが,これが最も目ざましかったのは,火災域に完全に囲まれながら1,600戸が焼け残った佐久間町・和泉町(およそ400m四方)です.ここへは4回にわたって火流が迫ってきたのですが,住民こぞっての必死の消火活動により防ぎきりました.浅草観音地区も避難者などの活動により守られました.
1995年兵庫県南部地震では震災の帯と呼ばれた帯状の高全壊率域が出現しました.地震火災は主として建物倒壊により生ずるので,出火点はこの帯状域に集中しています(図17.7 兵庫県南部地震による出火点の分布).
現在の東京をM7.2の直下地震が襲った場合,都内全体で38万棟の家屋焼失が生じるという想定がなされています.火災危険度(出火危険度×焼失危険度)が高い地区は,区部においては都心を取り巻きドーナツ状に分布しています(図17.8 東京直下の地震による火災被害の想定).これは木造建物が過度に密集し幅広い道路の少ない地区です.出火危険度は,高層の共同住宅が多い地域や飲食店・事業所の多い繁華街で高くなっています.広い緑地・空閑地がありゆったりとした住みやすい街は安全な街でもあります.大東京へのますますの集積が災害のポテンシャルを著しく増大させていることはどう受けとめられているのでしょうか.東京の災害危険度は,世界の都市の中で群を抜いて最大です.
- 主要参考文献
- 阪神・淡路大震災調査報告編集委員会(1998):阪神・淡路大震災調査報告.建築編-6.
- 警視庁(1925):大正大震火災誌.
- 内務省社会局(1926):大正震災志.
- 岡田恒男・土岐憲三編(2000):地震防災の事典.朝倉書店.
- 消防科学総合センター(1984):地域防災データ総覧-地震災害・火山災害編.
- 震災予防調査会(1925):関東大震災調査報文.震災予防調査会報告第百号.
客員研究員 水谷武司