防災基礎講座:基礎知識編-自然災害をどのように防ぐか-
15. 高い津波がいち早く襲来するため緊急避難が最も必要な海岸には警報は間に合わない -1896年明治三陸津波,1933年昭和三陸津波,1983年日本海中部地震津波など
津波の危険が大きいリアス海岸
地震により海底面が急激に隆起あるいは沈降すると,即座に海面が同じかたちに変化し,ついで海面波動(津波)として四方に伝わります.海底面を大きく変化させて高い津波を引き起こすのはM8~9の海溝型巨大地震です.日本列島周辺では,北海道・東北地方の太平洋岸沖につらなる千島海溝~日本海溝沿いで巨大地震が最も頻繁に発生しています(図15.1 日本周辺海域における主要津波の波源域).この海域に直面する三陸海岸はリアス式であるという海岸地形の条件が加わって,しばしば大きな津波災害を被っています.リアス海岸とは,地殻運動により山地が沈降し河谷に海が入り込んだ地形で,岬と小湾が連続する屈曲に富む海岸線をつくります.山が海に迫っているので,集落は狭くて低い湾岸低地に散在して立地することになり,津波に対する脆弱性の大きい居住状況がつくられます.湾の平面形がV字状であると,その湾奥では津波が押し込められて波高が高くなります. 平面形や水深分布によって決まる湾の固有振動周期が津波の周期と一致すると,共振現象により波高はさらに高くなります(図15.2 リアス海岸における津波増幅).
1896年明治三陸津波
1896年(明治29年)6月15日19時すぎ,三陸海岸の東方200kmの日本海溝沿い海底下でM6.8の地震が発生しました.陸地における震度は2~3ほどであったので,ちょうど旧暦の端午の節句を祝っていた人々は大して気にもとめませんでした.しかしこの地震は,断層破壊の進行がゆっくりと進むのでマグニチュード(M)のわりには大きな津波を起こすという「津波地震」でした.断層面の広さは,長さが250km,幅が80kmという大きなもので,津波の規模から求められるMは8.4という巨大規模の地震でした.津波地震は陸上で感じられる震動が小さいので,不意打ちとなり人的被害を大きくします.
明治三陸津波と名づけられたこの津波の第1波は,地震から35~60分後に三陸海岸に到達しました.津波の到達高は全般的に10m程度,最大で38m(綾里)でした.これによる被害は,岩手・宮城・青森の3県で死者・行方不明2.2万人,流失・倒壊家屋1.2万戸という著しいもので,日本の津波災害史上で最大の災害となりました(図15.3 明治および昭和の両三陸津波による死者数の比較).岩手県の36被災町村における家屋流失率は34%,死者率は17%,宮城県の17被災町村における家屋流失率は25%,死者率は11%でした.
津波は波長の非常に長い波であって,一般の風波とは全く異なり海面が数分以上高まる現象なので,海水が継続して大量に流入してきます.したがって津波の高さが5mにもなると,低い海岸低地に立地する集落では流失・倒壊率が100%近くにもなり,避難が間に合わないと人的被害が非常に大きくなります(図15.4 津波の高さと住家被害率との関係).田老村(波高15m)では死者数1,867人で死者率83%,唐丹村(波高17m)では死者数1,684人で死者率66%,釜石町(波高8m)では死者数3,765で死者率54%でした.田老村の田老地区ではほぼ全戸流失・倒潰し,生き残った人は海へ漁に出ていた人か山へ仕事に出かけていた人だけという状態で,一家全滅が345戸中で130戸にもなりました.岩手県全体では一家全滅が728戸でした.
1611年には明治三陸津波よりもやや大きいと推定される慶長の大津波があり(田老における波高は15~20m),三陸沿岸は大きな被害を被りました.これも津波地震であった可能性があります.これ以降少なくとも6回,平均40年の間隔で,かなりの被害を伴う津波に襲われています.1856年の安政の津波では,南部藩における家屋流失・倒潰200戸,死者26人が記録されています.
このように度重なる被災の履歴があるにもかかわらず津波に備える態勢は無かったようで,震動が弱い津波地震であったことも関係して,非常に多くの人命被害をもたらす結果になりました.津波は神仏の祟りによるものといったような誤った俗説や語り伝えが,危険の認識を甘くしていたこともまた関係していたようです.高地移転は抜本的な危険除去対策であり,被災後にかなりの集落が集団であるいは分散して高地移動をしたのですが,田老地区のように原地再建した集落も多く見られました.
1933年昭和三陸津波
37年後の1933年に三陸沿岸は再び大きな津波に襲われました.このときは強い震動が感じられたことなどにより死者数は少なかったのですが,それでも3千人という多さでした.地震の発生は桃の節句の3月3日02時32分で,震源域は1896年のそれと半分ぐらい重なり,地震の規模は8.1で三陸海岸における震度は4~5でした.この地震の断層はプレート境界での低角逆断層ではなくて,太平洋プレート内部における正断層で,巨大地震としては特異なものでした.このいずれの場合にも,西方の日本列島に向けて海面の低下(引き波)が先行して伝わります.正断層では専ら海底の沈下が生ずるし,西に低角で傾斜する逆断層では陸地側に沈降部が現れるからです.
津波は地震の約30分後に三陸海岸に到達し,まず海水がかなり沖へ退き,ついで数分後に最初の高波が襲来しました.多くのところで第2波が最大で高さは10mを超え,綾里では29mに達しました.全般的にみて,明治の津波よりもやや規模が小さいものでした.それでも流失・倒潰家屋は7千戸にもなりました.ほとんどの人が寝静まっている時刻であったにもかかわらず死者数が3千人と明治に比べ少なかった理由としては,震度5の強い揺れが感じられたこと,明治の大津波の経験がまだ風化していなかったことなどが挙げられます.津波の周期は10分前後であり、大きな波は5波ほど到来しました.
明治の津波に比べ大部分の集落で死者数を大きく減らしたのですが,そうでなかった集落もいくつかありました.田老町田老(波高10m)では全戸数362戸のうち358戸が流失・倒潰し,地区人口1,798人の44%にあたる792人が死亡するという,明治に引き続く大被害を被りました.ここは慶長大津波でも全滅の被害を受けています.唐丹村本郷(波高14m)では全戸(101戸)が流失・倒潰し死者数は326人,死者率は53%でした.明治の津波後に高地への集団移転をおこなった船越村船越,唐桑村大沢,階上村杉の下などでは,ごく少数の原地復帰者が被災しただけでした.唐丹村小白浜(波高17m)では,一旦高地へ集団移転したものの山火事に遭ったこともあって大部分が原地復帰しました.このため全160戸中98戸が流失・倒潰したのですが,死者数は7人でした.
昭和の津波による再被災の後,移転を渋っていた住民も行政の働きかけを受け入れ,岩手・宮城両県で98集落,約8,000戸が集団あるいは個別に高地移転を行いました(図15.5 三陸海岸集落の高地移動).しかしその後,原地に新たな家並みが復帰者や新規居住者によってつくられているところが大部分です.田老地区は3度にわたり全滅の被害を被ったのですが,そのつど原地再建を行い,現在では高さ7.7m(海抜高10m),延長2.4kmの津波防波堤を建造して市街を守っています.なおも存在する津波の大きな危険よりも日常的な生活上・経済活動上の便益を優先させるという,危うい高コストの選択を地区住民が行ったということであり,たとえ監視・警報・避難の総合的対策を立てていたとしても,津波対策の模範となり一般に推奨されるものではありません.現在では生活様式や社会構造の変化により海岸べりの低地に住みつく必要度は大きく低下しています.海岸構造物は高価です.釜石湾内につくられた延長2.1kmの防波堤の建造には1,200億円を要しています.
津波の到達時間と緊急避難
大きな津波の集中発生は,東海から四国にかけての太平洋岸沖の南海トラフ沿いにもみられます.ここでは100年間隔ぐらいで巨大地震が起こっています.最近では1944年の東南海地震(M7.9),1946年の南海地震(M8.1)があり,大きな津波被害をもたらしました.南海トラフは陸地近くにあり津波の波源域はほぼ陸地にかかるので,津波の峯の到達は地震後5分程度と非常に早くなります.東南海地震は熊野灘を震源とし,リアス地形の紀伊半島南東岸に最大9mの高さの津波を引き起こしました.全体の死者数は1,251人,うち津波によるものは639人と約半分でした.津波による流失・全壊家屋はおよそ3,000戸でした.南海地震は潮岬沖50kmを震源とし,波源域が西方に広がったので紀伊半島南半部と四国南岸に3~6mの津波を発生させました.流失家屋は1451戸,死者は510人(全体の死者数は1,443人)でした.津波はまず引き波ではじまり,第3波が最大でした.一旦波が引いたので家に戻ったところ次の大波に襲われたという例がかなりありました.
日本海では1983年日本海中部地震(M7.7)と1993年北海道南西沖地震(M7.8)により大きな津波被害が発生しています.日本海中部地震では秋田県能代の遠浅の砂丘海岸において,最大到達標高14mという大きな遡上がみられました.死者は100人でしたが,そのほぼすべては港湾工事作業者や遠足の小学生など海を知らない外来者でした.津波は地震後7~8分で海岸に到達しました.北海道南西沖地震による津波は5分後に奥尻島に達し,島の南端の海岸低地にある青苗地区は高さ8mの波に襲われ,死者107人(島全体では198人)の被害を受けました.災害後,防波堤を高さ11.8mに積み増し(8mの津波はこれを乗り越える),半数以上の住民が海岸べりの原地に復帰しました.
津波は早いときには地震後5分ぐらいで海岸に到達します.この津波に対しては,寸秒を争って高所に駆け上がるという緊急退避行動がとることのできるほぼ唯一の手段です.津波が最も高くなる海岸には最も早く津波が到達します.この非常に短い時間内に外部からの情報が効果的に伝わるという前提に立つのは危険です.海岸にいて強い地震を感じたら,あるいは海水が異常に退いたり白い壁となって押し寄せてくる大波を認めたらすぐに退避行動を起こさねばなりません(写真15.1 津波の襲来).津波に関する正しい知識を持ち,いまいるところの土地の環境を知って,自らの判断と行動により津波の危険を回避する必要があります(図15.6 津波避難場所の指定).
- 主要参考文献
- 愛知県防災会議(1975):昭和19年12月7日東南海地震に関する踏査報告.
- 中央気象台(1933):昭和38年3月3日三陸沖強震及津波報告.
- 土木学会東北支部(1983):日本海中部地震報告.土木学会誌68-9.
- 羽鳥徳太郎(1977):歴史津波とその研究.
- 宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧.東京大学出版会.
- 山口弥一郎(1960):三陸の津波.日本地誌ゼミナールⅡ,大明堂.
- 山下文男(2005):津波の恐怖-三陸津波伝承録.東北大学出版会.
客員研究員 水谷武司