防災基礎講座:基礎知識編-自然災害をどのように防ぐか-
3. 沿岸砂丘列により閉ざされた潟起源の平野における洪水 -1966・1967年新潟・加治川の破堤氾濫など
新潟平野の地形と洪水氾濫
新潟平野の北部,北蒲原地方を流れる加治川は,河道がS字状に屈曲する西名柄(左岸)と向中条(右岸)において,同一個所が2年連続して破堤しました.氾濫水は沿岸の砂丘列によって海への排水が妨げられ,福島潟低地など潟起源の凹地に流入して長期間滞留しました.排水を促進するために,破堤地点から20km離れた阿賀野川(流域面積8位の大河川)の堤防を開削するという非常手段もとられました(図3.1 加冶川周辺低地の地形と1966年氾濫域).近年では,1998年8月に前線豪雨によって福島潟周辺低地が広く浸水しました.
新潟平野はその名が示すように,海が内陸に閉じ込められてできた潟が,かつては多数存在していました.冬の強い季節風による波が荒い日本海沿岸では,多量の砂が浜に打ち上げられて砂の高まり(浜堤)がつくられます.この砂は風に動かされて砂丘に変わります.海浜堆積の進行により海岸線が沖に向かって前進すると,新たな浜堤が海岸線に沿ってつくられ,以前の浜堤は内陸へと移っていきます.海面が低下すると沖にあった沿岸砂州が陸化して砂丘に変わります.新潟平野では,こうしてつくられた砂丘列が多いところでは10列,全体の幅が20kmにもなっています.平野に流入する河川の出口はこの沿岸砂丘列によって塞がれるので,まっすぐに海へ流入することができません(図3.2 新潟平野の地形および放水路).
新潟平野は地殻の褶曲運動による沈降域にあたっています.沈降の速度は大きく,年に10mm近くにも達しています.沖積層厚は日本の平野中最大で,最も厚いところでは170mもあります.沈降の進行により,内陸に位置する古い砂丘は部分的に地表下に埋没して断続的になっています.最も古い砂丘の形成は約6千年前で,縄文前期の土器が出土します.近年では地下水の過剰揚水による地盤沈下が,平野の地盤高を更に低くしています.揚水は地下水中に溶存しているメタンなどの採取のために行われ,1957年ごろがその最盛期でした.地盤沈下は含水層の圧密により起こり,一度生じたら回復しません.
新潟平野の干拓と放水路
このように新潟平野は,砂丘列による海岸部の閉塞と平野基盤の急速な沈降とにより,信濃川・阿賀野川という大河川が流入して多量の土砂を供給しているにもかかわらず,非常に低湿な平野となっています.6千年前の海面上昇期(縄文海進期)には,平野北半部は海で,長い砂州により閉ざされた潟湖があったと考えられています(図3.3 6千年前ごろの新潟平野).その後の海面低下と信濃川などによる土砂堆積により次第に陸化しましたが,地盤高は低くて多数の潟が残存してきました.この低湿な平野の開発は江戸時代前期になって始められ,潟はほとんど干拓されました.残っている水域はわずかですが,排水条件の悪い凹状の地形はなおも現存しています.主要な潟には,鳥屋野潟(広い水面存在),福島潟(ほぼ干拓),紫雲寺潟(1733年干拓),鎧潟(1966年全面干拓),八丁潟(明治前期までに干拓)などがあります.
平野開発前において,海へ排水する出口(河口)を持っていたのは信濃川と平野北端の荒川だけで,それ以外の河川は砂丘列の間や背後を通ってこれら2河川に合流していました.現在では,砂丘列や丘陵を横切る14本もの放水路(開削水路あるいはトンネル)がつくられて,海への直接排水を行っています.流路延長が日本最大の信濃川では,1922年に地すべり丘陵を開削して大河津分水が設けられ,洪水の大部分はここから日本海に排水されるようになりました.また,大河川の阿賀野川が放水路および水門により信濃川と分離されたので,平野中央部における洪水の危険は大きく低下しました.大河津分水の通水後には,信濃川下流における洪水位は2m程度低くなりました.
加治川の右岸には,かつて広大な紫雲寺潟がありましたが,落堀川放水路により1732年に干拓され水田に変わっています.左岸側には,阿賀野川との間に福島潟があります.これはほぼ干拓されて残っている水域はわずかですが,周囲には標高ゼロメートル以下の低地が広がっています.かつて加治川水系を構成していた諸河川は,海への出口を砂丘列によって阻まれて,左右に流路をとり紫雲寺潟や福島潟などに流入していました.加治川はその名が示すように,さまざまな治水工事が古くは14世紀ごろから加えられてきており,流路の変遷はめまぐるしいのですが,現在のように砂丘列を5kmにわたり掘り割って分水路がつくられ,直接日本海に流入するようになったのは,1917年(大正6年)のことです(図3.4 加治川の河道変遷).
潟性平野の洪水
このような河川が砂丘列背後において氾濫した場合には,洪水流は現河道から離れ,以前の河道沿いの凹地をたどって潟起源の低地に流入して,長期間の湛水をみることとなります.海岸に砂丘がつらなり,内陸が広い後背低地状になっている平野としては他に,庄内平野,秋田・能代平野,津軽平野,石狩平野,天塩平野(すべて日本海沿岸)などがあります.規模の小さい潟性の海岸低地は,太平洋岸も含め日本各地にあり,数多くの浸水危険地をつくっています.このような潟性低地の浸水例として,静岡・清水低地を流れる巴川の1975年7月の氾濫が挙げられます(図3.5 静岡・巴川低地の地形と1975年浸水域).巴川低地は,安倍川が運搬する多量の土砂による扇状地および砂礫州によって閉ざされた潟起源の低地で,浸水の高危険地です.このような低湿地への市街化の進展は,新たな災害を生み出しています.
1966,1967年加治川洪水
1966年,1967年と連続した加治川破堤は,河道がS 字状に屈曲して洪水流が突き当たる水衝部にて生じました(写真3.1 1967年加治川破堤氾濫の空中写真).屈曲部の外カーブ側には,洪水の衝撃が加わると同時に,遠心力に振られて水位が上がるので,堤防の決壊・破堤が生じやすいのです.前年(1966年)の洪水でこれら2箇所の水衝部が破堤したので,直線河道に改修する工事が工期2年で進められていました.このため仮堤防の状態にあったため,1年後の洪水で再び同一箇所が破堤しました.新設の直線河道内に位置することになった西長柄の集落は500m西方に移転しましたが,再び洪水の直撃を受けることになりました.破堤氾濫が生ずると,その上流部河道内の洪水流の流速は大きくなるので,上流にある水衝部では警戒を強めねばなりません.破堤の時間差は,66年洪水で5時間,67年洪水では30分でした.
左岸側の破堤口から溢れた洪水流の主流は,自然堤防および盛土の微高地上に立地している新発田の市街地を迂回して流れ,砂丘列によって行く手を阻まれて南西に向かい,福島潟の低地に流入しました.砂丘の高さは最大で20mあります.写真上で左上に続く白っぽい部分は土砂堆積地および浸水域で,地盤高のわずかな差が色調によく示されています.浸水域の中央にある水路は,かつては加冶川本流であったこともある新発田川です.現河道沿いは地盤高が高くなっていることが,黒っぽい色調からよく認められます.右岸破堤口からの氾濫流は,自然堤防の間の凹地をまっすぐに流下して,現在は干拓されている旧紫雲寺潟の低地に流入しました.
洪水が流入した潟性低地は,排水条件が非常に悪い凹状低地であるため,66年の水害時には湛水日数は右岸側で15日,左岸側で19日に及びました.福島潟の排水河川である新井郷川の河口近くには,当時は東洋一ともいわれていた規模の排水機場が設置されていたのですが,排水をさらに促進するために阿賀野川堤防を開削するという非常手段もとられました(写真3.2 阿賀野川の堤防開削).新井郷川堤防も4箇所開削されました.
連続して起こった水害
加冶川流域では,1913年(大正2年)の大洪水後は,1966年までの53年間豪雨というほどの雨はなかったことが幸いして,大きな災害はありませんでした.この間の1952年からは,計画洪水流量を毎秒2,000トンとする河川改修計画が進められていました.この進行過程で,最大流量が毎秒2,300トンと推定される出水により破堤が生じました.このため計画流量を毎秒3,000トンに引き上げて工事にとりかかった矢先に,最大流量3,200トンの洪水が発生して,2年連続の災害を被りました.
連続して大きな災害を受けた例としては,1947年9月のカスリーン台風と48年9月のアイオン台風により大きな洪水被害を受けた岩手県一関市,1963年から3年連続して水害を被った球磨川上流の熊本県・五木村などがあげられます.一関市の被害は,1947年が死者101人,住家流失・全壊331戸,1948年が死者473人,流失・全壊802戸という著しいものでした.群馬県・桐生市は1947年(カスリーン台風)と1949年(キティ台風)に大きな洪水被害を受けました.
短期間の観測データに基づく確率計算によって,ある流量の洪水が50年とか100年といった長い期間に1回しか起こらないとされたとしても,実際にそのような期間を経て起こるということを意味するものではありません.自然現象の発生の不規則性ということのほかに,流域の土地利用変化や河川改修は,同じ雨量であっても最大流量を大きくして既往最大値を更新させる働きをします.確率的に示される年数の意味するもの,および土地改変の影響について理解している必要があります.
- 主要参考文献
- 防災科学技術研究所(1999):1998年8月4日新潟地方豪雨災害調査報告.主要災害調査第36号.
- 貝塚爽平ほか(1985):日本の平野と海岸.日本の自然4,岩波書店.
- 小出 博(1970):日本の河川.東京大学出版会.
- 静岡県(1975):7.7集中豪雨災害誌.
- 高橋 裕(1971):国土の変貌と水害.岩波書店.
- 高橋 裕・宮村 忠(1970):加治川水害の意味するもの.水利科学73.
客員研究員 水谷武司