4. 利根川の氾濫
4.2. 氾濫流の動き
(1)破堤地点の様子
この当時は敗戦直後の占領下で,米空軍が洪水の航空写真を撮影していました.Aが破堤箇所で,Tは利根川(新川通),Wは渡良瀬川,Bは東武線鉄橋,Cは旧河道(浅間川),Kは栗橋です.破堤口の先に楔状の細長い池と白く映える砂州が両側面にみられます.池は流入した激しい洪水流の侵食によってできたもので,押堀と呼ばれます.長さは1000m,最大深さは7mもあり,流れが非常に激しかったかことがわかります.砂州は運ばれてきた砂が流れの側面で堆積してできたもので,その位置と形が示すように自然の堤防です.破堤口の先から放射状に伸びる縞状の模様が洪水流の進行方向を示します.その主流は右下の栗橋の方向へ向かっています.冬の季節風を防ぐ目的で,北西側を屋敷林で囲んでいる家がこの地域には多くみられます.この屋敷林が,やはり北西からの洪水流を緩衝して,主流部分にあっても流失を免れている家が多くみられます.左方の屈曲する帯状部は以前に利根川本流であったこともある浅間川の旧河道で,現在は水田になっています.旧河道に沿って連続する黒い部分は,やや小高いので集落や林地となっている自然堤防です.氾濫水はこれにより一時貯留され浸水深を大きくしました.この自然堤防と利根川河道とに囲まれる半円状の部分は浅い皿状の低湿地で,後背低地と呼ばれます.一般に平野内には旧河道・自然堤防・後背低地が分布していて,かなりの起伏がみられます.その高度差は通常0.5~3m程度と小さいものですが,浸水の危険度には大きな影響を与えます.写真中の自然堤防上の家は浸水を免れあるいは床下浸水で済みました.中央の後背低地内の浸水深は最大で3.8mに達し、約120戸が流失しました.
(2)氾濫域の拡大
破堤による氾濫流はまず後背低地内に激しく流入しました.破堤後約1時間で洪水は後背低地内全域に及び,4時間後にはこの凹地を満水し,ついで南および西に向かって流れ出しました.このように,氾濫流は自然および人工の堤防に支えられて後背低地内にプールされ,水位を高めて堤防の低所を破って次の低地に流入するということを繰り返しながら,平野地盤の傾斜に従い東京湾に向け南下しました.古利根川・庄内古川・中川・元荒川などの低地内河川の堤防は各所で決壊・破堤しました.洪水の主流は次第に東へ寄り,江戸川沿いに進行しました.氾濫流の進行速度は破堤口に面する後背低地内では平均時速5kmという速いものでした.その後は一時貯留を繰り返しながら流下したので,進行の平均時速は洪水域中流部において0.5~1km程度でした.
家屋の流失および全壊は,破堤地点から幸手南方に至る約10kmの区間で集中的に発生しており,ここを激しい洪水が流れたことがわかります.破堤口に面する後背低地内ではおよそ120戸の家屋が流失しました.この皿状の低地から溢れ出た氾濫流が栗橋に集中したため,栗橋町全体で死者18,流失・全壊116戸という被害が生じました.幸手付近には数列の自然堤防がゆるやかに屈曲しながら並走しています.これらの間隔が狭くなってきたところで堰き上げによる激しい流れが生じたため,破堤口から10kmも下流であったにも拘らず,80戸もの全壊・流失が生じました.この破堤箇所付近における死者数は全体の2/3、流失・全壊戸数は全体の90%でした。
(3)東京へ達した氾濫流
破堤から2日半後に氾濫流は,埼玉・東京境界の大場川を越え桜堤(古利根川の堤防)に達しました.ここで氾濫流は一時阻止されたものの,米軍の江戸川堤防爆破による排水は間に合わず,9時間持ちこたえた後18日2時についに破堤しました.勾配の非常に緩やかな三角州域であり,鉄道・道路などの障害物が多いので,洪水の進行は遅く時速0.2km以下でした.流れの一部は北に向かいました.南下した氾濫水は常磐線ついで総武線の路盤を越えて2日後に荒川河口近くの新川堤に達して停止しました.西へ向かった流れは中川堤防を破壊して綾瀬川までの範囲を水没させました.
これにより葛飾区の全域および江戸川区・足立区のほぼ半分の地域が浸水しました(図1.5東京における洪水の進行).この浸水域の西側半分(荒川沿いの地域)は地盤沈下により海面下の土地になっているので,湛水期間は半月を超えました.浸水家屋の大半は床上浸水でした.東京都(足立・葛飾・江戸川の3区)における浸水家屋は床上82,931,床下22,551で,埼玉県における浸水戸数40,040を大きく上回りました.