1 利根川とは
1.1 利根川の姿
関東平野を流れる利根川は,水源を大水上山(1,834m)に発し,銚子市で太平洋に注ぐ流域面積日本一(16,840km2),長さ日本2位(322km)の大河川です.約800の支川を集め,上流には矢木沢ダムなど多くのダムを抱え,首都圏の水瓶となっています.
利根川は暴れ川で,流域に度々洪水被害をもたらしています.流域内には約1200万人の人が住んでおり,洪水が起きると多大な影響を及ぼします.そこで水害を防ぐため,ダムをはじめ様々な治水施設が造られています.例えば渡良瀬川との合流点にある渡良瀬遊水地や貯水池では,洪水時に溢れた水を一時的に貯水し,利根川に合流するのを遅らせる役割を果たしています.また,一部ではスーパー堤防と呼ばれる高規格堤防が造られています.スーパー堤防は従来の堤防よりはるかに大きく約200-300mの幅を持ち,破堤することのないように設計されたものです.
1.2 河道の付け替え
江戸時代以前には,利根川・渡良瀬川・荒川は南に流れて東京湾に流入し,鬼怒川・常陸川・小貝川は東南に流路をとって鹿島灘に注いでいました.徳川幕府は利根川を東に向けるという東遷事業を1500年代末から1600年代前半にかけて行いました.まず中流部の乱流河道を北寄りの河道に一本化し,新川通を開削して渡良瀬川と合流させ,平野を東西に二分する分水界の台地を開削してつくった赤堀川(栗橋,関宿間)により常陸川に連結させました.赤堀川の名はローム(赤土)に由来します.このロームがあることから.低くはなっているものの台地であることがわかります.荒川はかつて利根川の支流でしたが,1629年に入間川に付替えられ,利根川から分離されました.江戸川上流部の開削,鬼怒川と小貝川の分離なども行われました.本流河道の拡幅などの工事は明治以降になっても行われ,総移動土砂量はパナマ運河をしのぐと言われるほどの規模でした.これらの大土木事業の結果,東に向けられた河道が利根川流量の大部分を流下させる本流になり,現在に至っています.
1.3 繰り返す洪水氾濫
流路を東に付替える東遷事業により利根川は安定した河川に改修されたわけではなくて,しばしば中流部で氾濫しました.
最大級の洪水は,江戸の三大洪水とよばれる寛保二年(1742),天明六年(1786),弘化三年(1846)の洪水,明治43年(1910)の洪水,および昭和22年(1947)のカスリーン台風による洪水で,50年に1回ほどの頻度で起こっています.
いずれも中流部で破堤して,江戸あるいは東京の東部にまで広く氾濫が及びました.
荒川も同時に出水することが多いので,利根川の氾濫に荒川の氾濫が加わって東京低地は広範囲に浸水しました.
天明六年の洪水は3年前の浅間山大噴火による泥流・火砕流が利根川に流入して河床を大きく変化させたことが一因になりました.
明治43年8月の洪水は明治における最大規模のもので,中条堤(栗橋西方20km)の破堤による氾濫流は古利根川沿いに東京まで流下し,関東地方全体で死者847,流失・全壊家屋4917の大きな被害を引き起こしました.
このような洪水を防ぐために,旧利根川低地内に斜めに横断する数列の洪水防御堤(中条堤はその1つ)をつくってブロックごとに氾濫をくいとめ,氾濫水を本流や江戸川に導く方策がとられましたが,大きな洪水を防ぐことはできませんでした.
1.4 利根川の流量配分計画
氾濫すれば東京を襲うおそれのある利根川の重要度は超A級であり,再現期間250年で計画されています.この250年確率の降雨の場合に想定される流量のうちの6,000トン/秒は矢木沢ダムなどの上流ダム群によって調節し,中流部の栗橋における計画流量を17,500トン/秒としています.これは1947年のカスリーン台風時に観測された最大流量に相当します.栗橋の下流では,江戸川への分流,放水路への放水および多数の遊水地における貯留によって,河口部における計画流量を9,500トン/秒に低下させています.最大の支流である渡良瀬川の洪水は,渡良瀬遊水地による調節により,ピーク時には本流に合流しない計画になっています.