明治三陸津波の被害と避難対応

東日本太平洋岸における津波災害

明治三陸津波の被害と避難対応

明治と昭和の津波による死者数1896年(明治29年)6月15日19時32分、三陸海岸の東方200kmの日本海溝沿い海底下でM6.8の地震が発生しました。陸地における震度は3程度であったので、ちょうど旧暦の端午の節句を祝っていた人々は大して気にもとめませんでした。しかしこの地震は、断層破壊の進行がゆっくりと進むのでマグニチュード(M)のわりには大きな津波を起こすという「津波地震」でした。断層面の広さは、長さが250km、幅が80kmという大きなもので、津波の規模から求められるMは8.4という巨大規模の地震でした。津波地震は陸上で感じられる震動が小さいので、不意打ちとなり人的被害を大きくします。
この津波の第1波は、地震から35~60分後に三陸海岸に到達しました。津波の到達高は全般的に10m程度、最大で38m(綾里)でした。これによる被害は、岩手・宮城・青森の3県で死者・行方不明2.2万人、流失・倒壊家屋1.2万戸という著しいものでした(図7.1)。岩手県の36被災町村における家屋流失率は34%、死者率は17%、宮城県の17被災町村における家屋流失率は25%、死者率は11%でした。
津波は波長の非常に長い波であって、一般の風波とは全く異なり海面が数分以上高まる現象なので、海水が継続して大量に流入してきます。したがって津波の高さが5mにもなると、低い海岸低地に立地する集落では流失・倒壊率が100%近くにもなり、避難が間に合わないと人的被害が非常に大きくなります(図7.2)。田老村(波高15m)では死者数1867で死者率83%、唐丹村(波高17m)では死者数1684で死者率66%、釜石町(波高8m)では死者数3765で死者率54%でした。田老村の田老地区ではほぼ全戸流失・倒潰し、生き残った人は海へ漁に出ていた人か山へ仕事に出かけていた人だけという状態で、一家全滅が345戸中で130戸にもなりました。岩手県全体では一家全滅が728戸でした。

1611年には明治三陸津波よりもやや大きいと推定される慶長の大津波があり(田老における波高は15~20m)、三陸沿岸は大きな被害を被りました。これも津波地震であった可能性があります。これ以降少なくとも6回、平均40年の間隔で、かなりの被害を伴う津波に襲われています。1856年の安政の津波では、南部藩における家屋流失・倒潰200、死者26が記録されています。
このように度重なる被災の履歴をもっているにも拘わらず津波に備える態勢はなかったようで、震動が弱い津波地震であったことも関係して、非常に多くの人命被害をもたらす結果になりました。津波は神仏の祟りによるものといったような誤った俗説や語り伝えが、危険の認識を甘くしていたこともまた関わっていたようです。高地移転は抜本的な危険除去対策であり、被災後にかなりの集落が集団であるいは分散して高地移動をしたのですが、田老のように原地再建した集落も多くみられました。

津波の高さと住家被害率との関係

(2010.4.30 水谷武司)

出典:防災基礎講座 災害事例編~災害はどのように起きているか~

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  • 【更新日】2025年5月21日
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