2011年3月11日東北地方太平洋沖地震 特設サイト

東北地方太平洋沖地震

東日本太平洋岸における津波災害

-津波危険地集落の高地移転

宮城県気仙沼市波路上周辺

 災害危険地からの住居移転は,いわば建物ぐるみの恒久的な避難であり,人命だけでなく資産被害も防ぐ抜本的な防災対策です.しかし,大きな危険が指摘されている場所でも,さらには,危険地に住んでいて大きな被害を受けた場合でも,なかなか移転にまでは踏み切れないのが現実です.三陸沿岸集落はその典型例といえるでしょう.

 三陸海岸は昔から繰り返し大津波災害を被ってきたという世界で最大の津波危険地帯ですが,海岸低地から高地への住居移転はあまり進みませんでした.1896年明治三陸津波では死者2.2万人の大被害を受け,三陸の多くの町村で安全な高地への集落移転が検討されたのですが,実施したのは一部の地区にすぎませんでした.その理由としては,被災地区の大部分が漁村で海浜から離れるのは漁業に不便である,零細漁民が多くて資金的に困難である,地区民の利害が一致せず合意形成は難しい,移転地の選定・買収に当たり地主との対立が生ずる,などが挙げられています.また,傾斜地の土地造成は当時の土木技術水準の面から制約がありました.このため各戸が任意に行う分散移動が主として行なわれました.漁業共同体としての集落を再興し維持するために,他地区への移住をやめさせようとする働きかけもあったようです.

 結局,大部分の被災集落は原地再建を選択したので危険は解消されず,昭和の再被災につながりました.少数ながら行なわれた集落移転の跡地には,移転者の一部が復帰したり,分家や他村からの移住者が住みついたりしました.家系の再興,屋敷・耕地の継承などのために,他村からの移住者の積極的受け入れも行われたようです。

 1933年昭和三陸津波では,明治の貴重な経験を活かして迅速な避難が行われ,死者数は実質で1/7に低下しました.しかし,建物はもちろん避難できないので多数の地区が壊滅的な破壊を受け,集落の再建が必要になりました.そこで,集落の高地移動が主要復興事業の一つに再び取り上げられ,県はこれを積極的に推進し,国は国庫補助および低利資金利子補給で支援しました.これにより当初は岩手・宮城両県で35町村の102集落が移転のための宅地造成計画をたてました.適地の条件は,海浜に近いこと,既往津波の最高浸水線以上に位置すること,海を望み得ること,南面の高地であること,飲料水が容易に得られることなどです.しかし,適地が得難いことに加え,資金調達困難,農地転用上の障害,地主との対立などの問題があって,結局,およそ100集落で約3000戸が,分散あるいは集団で高地移転を実施しました.これ以外に,個別に移住した人々は多かったはずです.

 危険な海岸低地への居住を制約するために,宮城県は県令により津波罹災地および津波罹災の虞れある地域における居住用建物の建築を規制しました.しかし時が経つにつれ,漁業に不便などの理由による元屋敷への復帰,分家や他地区からの移住者の居住などにより,大部分の地区で元のような家並みが復活しました.

 高地移転の経過を代表的な地区についてみてみます.唐丹村本郷は,明治の津波により,ほぼ全戸が流失・倒潰し地区民の半数以上が亡くなる大被害を受けました.災害後,わずか4戸が背後の高地に移動し,その他は原地再建しました.7年後には野火によりほぼ全戸焼失したものの,やはり原地に再建しました.昭和の津波では,流失・倒壊101戸,死者326人の大被害を再度受けたので,集落近くの谷斜面を切り盛土して階段状に宅地を造成し,101戸全戸が移転しました.移転跡地は非住家地区とされ,その後復帰者は全くないという数少ない例になっています.山田町船越,唐桑村大沢,唐桑村只越,大谷村大谷,階上村杉の下は,明治の津波後に高地へ集団移転した地区ですが,ここではごく少数の原地復帰者が昭和の津波で被災しただけでした.唐丹村小白浜は一旦高地へ集団移転したものの山火事に遭ったこともあって大部分が原地復帰し,昭和の津波では全160戸中98戸が流失・倒潰を受けました.しかし明治の経験を活かして死者を7人にとどめました.明治の津波で到達標高が38mという最大高を記録した綾里村では,数戸が個別に高地移転しただけでした.昭和津波では最大29mという高い津波に再び襲われて大被害を受けました.この災害後,各地区の背後斜面に土地造成して計150戸が高地移転しました.山田町田の浜地区は,明治の津波後に集落高地移転を計画したものの実現せず,昭和津波で再被災しました.この津波の後に高地移転の実行を決断し,300m離れた谷奥の標高15~20mの緩斜面に,長さ500m,幅100mの長方形の整然とした区画の宅地を造成し,240戸を収容可能にしました.

 田老町田老地区は,慶長の大津波で集落全滅,明治三陸津波で流失・全壊家屋615戸,死者3,765人,昭和三陸津波で流失・全壊家屋358戸,死者792人と,大被害を被っても高地移転は選択せずにそのつど原地再建を行い,再び被災するということを繰り返してきました.三陸村崎浜は明治の津波でほぼ全滅したものの,原地の海岸低地に整然とした区画整理をして復興再建したので,昭和の津波で再び大きな被害を受けました.

 高地移転は土砂災害という他の危険への接近を伴います.これは主として大雨で起こり,津波よりも身近な危険です.この防止のためには,急傾斜地や谷底などを避けて移転先の土地を選定する必要がありますが,適地を得るのはなかなか困難です.土地造成が土砂災害を起こす原因となることはしばしばです.山火事への備えもまた必要です.

 移転を妨げる最大の理由に多額の経済的負担があります.現在,この障害を打開して移転を促進するために「防災集団移転促進事業」と「がけ地近接危険住宅移転事業」の制度が国によって運用されています.これは個人の自発的移転に対し利子補給,跡地買い上げ,移転先用地の整備などを行うものです.急傾斜の崖地では危険の存在が実感されやすいので,後者の制度による移転戸数は多く,年数百戸ほどがこれによる補助を受けて移転しています.補助金の限度額は1戸当たり800万円程度です.なおこの制度は,住宅・建築物耐震改修等事業に統合して運用されるようになりました.

 個人住宅の安全をはかるための強制的移転制度はありませんが,防災施設の建設や都市計画事業のために,「土地収用法」により全額の移転補償を行って強制移転させることは行われています.復旧事業でこの補償を得ることができたか否かで,受ける援助の程度に大きな差が生じているケースがあります.

 本来,防災のための移転は,災害を受ける前に行われるべきものです.軽微な災害を受けたのを契機にして,防災集団移転制度を利用して,いわば災害予防的に移転を実施した集落は,山地内・小離島・海岸べりなどに孤立している集落がほとんどで,生活向上も目指して移転に踏み切っています.大きな災害地では,災害後に巨額の防災工事が行われるので,住民はこれにより安全になると思うことが,移転をしぶる一つの原因となっています.

 特定の場所に限ってみれば,次に災害を被るまでの期間は一般にかなり長いものです.従って,家を改築する機会を利用して,少しでも危険の小さい場所に住み替えるという心がけは必要です.高危険地の場合,避難は移転までの過渡的な手段と考えるべきでしょう.あえて居住を続ける場合は,被る被害をその土地の利用が与える便益を得る必要コストとして受け入れるという選択をしていることになります.

 被災住宅の再建に対する資金援助は,その方法によっては危険除去の自主的努力を妨げ,被害ポテンシャルを大きくする可能性があります.もし安易な資金助成が危険な居住を続けさせることにつながるならば,防災目的に反することにもなりかねません.明らかに防災努力を怠っていたことによる被災に対しての経済支援は,社会的公正の面から問題です.

 住宅が全壊などの被害を受けた世帯に対し資金を給付する制度には,1995年兵庫県南部地震災害を契機に設けられた被災者生活再建支援制度があります.支給額は,2007年改正により,全壊の場合300万円となっています.使途を定めない定額渡し切り方式で,住宅本体の建設や購入にも支出できるようになりました.支給は都道府県が拠出した基金600億円から行い,国は支給する支援金の1/2に相当する額を補助します.被災者の住まいの確保は災害からの立ち直りにとって最重要です.

 被災して,現地再建するか集団移転に踏み切るかは、厳しい選択です.次に何時来るかわからない危険に備えることよりも,日常の生活・生産活動が優先されるのは,人はとにかく日日を生きていかねならないのですから,やむを得ないことかもしれません.しかし,以前のまちをよみがえらせるのだ,という感傷的まちづくり論だけでは防災にならないことも確かです.本来,災害高危険地には初めから住まないという選択が基本であって.住んでしまってからの移転はやむを得ない次善の策に位置づけられるものなのです.

(2011.4.5 水谷武司)

写真:宮城県気仙沼市波路上岩井崎付近(提供:アジア航測株式会社,撮影日:2011/3/12)

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