2011年3月11日東北地方太平洋沖地震 特設サイト

東北地方太平洋沖地震

東日本太平洋岸における津波災害

-昭和三陸津波の被害と避難・高地移転

明治の津波から37年後の1933年に,三陸沿岸は再び大きな津波に襲われました.このときは強い震動が感じられたことなどにより死者数は少なかったのですが,それでも3千人という多さでした.地震の発生は桃の節句の3月3日02時32分で,震源域は1896年のそれと半分ぐらい重なり,地震の規模は8.1で三陸海岸における震度は4~5でした.この地震の断層はプレート境界での低角逆断層ではなくて,太平洋プレート内部における正断層で,巨大地震としては特異なものでした.このいずれの場合にも,西方の日本列島に向けて海面の低下(引き波)が先行して伝わります.正断層では専ら海底の沈下が生ずるし,西に低角で傾斜する逆断層では陸地側に沈降部が現れるからです.

津波は地震の約30分後に三陸海岸に到達し,まず海水がかなり沖へ退き,ついで数分後に最初の高波が襲来しました.多くのところで第2波が最大で高さは10mを超え,綾里では29mに達しました.全般的にみて,明治の津波よりもやや規模が小さいものでした.それでも流失・倒潰家屋は7千戸にもなりました.ほとんどの人が寝静まっている時刻であったにも拘わらず死者数が3千と明治に比べ少なかった理由としては,震度5の強い揺れが感じられたこと,および明治の大津波の経験がまだ風化していなかったことが挙げられます.津波の周期は10分前後であり、大きな波は5波ほど到来しました.

明治の津波に比べ大部分の集落で死者数を大きく減らしたのですが,そうでなかった集落もいくつかありました.田老町田老地区(波高10m)では全戸数362のうち358が流失・倒潰し,地区人口1798の44%にあたる792人が亡くなるという,明治に引き続く大被害を被りました.この地区は慶長大津波でも全滅の被害をうけています.唐丹村本郷(波高14m)では全戸101が流失・倒潰し死者数は326,死者率は53%でした.明治の津波後に高地への集団移転をおこなった船越村船越,唐桑村大沢,階上村杉の下などでは,ごく少数の原地復帰者が被災しただけでした.唐丹村小白浜(波高17m)では,一旦高地へ集団移転したものの山火事に遭ったこともあって大部分が原地復帰しました.このため全160戸中98戸が流失・倒潰したのですが,死者数は7でした.

昭和の津波による再被災の後,移転を渋っていた住民も行政の働きかけを受け入れ,岩手・宮城両県で98集落,8000戸が集団あるいは個別に高地移転を行いました.しかしその後,原地に新たな家並みが復帰者や新規居住者によってつくられているところが大部分です.田老地区は3度にわたり全滅の被害を被ったのですが,そのつど原地再建を行い,高さ7.7m(海抜高10m),延長2.4kmの津波防波堤を建造しました.なおも存在する津波の大きな危険よりも日常的な生活上・経済活動上の便益を優先させるという,ハイコストでなによりもハイリスクの選択を地区住民が行ったということになります.

(2010.4.30 水谷武司)

出典:防災基礎講座 災害事例編~災害はどのように起きているか~