2011年3月11日東北地方太平洋沖地震 特設サイト
東日本太平洋岸における津波災害
-災害の経験をいかに伝え活かしていくか
2011年3月11日,三陸海岸を中心に東日本太平洋岸において,また大津波災害が発生しました.日本海溝の北半部では巨大地震が数十年に1回という高頻度で起こっているので,この海域に直面する三陸海岸はリアス式という地形条件も加わって,繰り返し大きな津波災害を被っています.太平洋を越えた南米沖からも高い津波が来襲します.ここは世界で最大の津波危険地帯と言ってよいでしょう.
1896年明治三陸津波は,三陸海岸を中心に青森から福島に至る太平洋岸に大きな被害をもたらし,死者総数は2.2万人にもなりました.このときの地震は,陸上での震動は弱いが大きな津波を起こすという津波地震で,最大震度は3程度でした.津波の最大到達標高は三陸南部の綾里で38mに達しました.1611年には明治の津波よりもやや大きいと推定される慶長の大津波があり,三陸沿岸は大被害を受けました.これ以降少なくとも6回,平均40年の間隔でかなりの被害を起こした津波が来襲しています.
37年後の1933年に三陸沿岸はまた大きな津波に襲われました.この昭和三陸津波は明治の津波よりも少し規模は小さく,流失・倒潰家屋数で比較すると,明治が1.2万,昭和は7千であり,綾里における最大到達標高は少し低い29mでした.しかし死者数は,津波来襲が午前3時ごろであったにも拘わらず3千でした.明治の津波の教訓を活かして多くの地区で迅速な避難が行われたためで,多数の死者がでたのは一部の地区に限られました(田老地区だけが飛びぬけて最大).
1960年に来襲したチリ地震津波は,三陸の2つの湾(大船渡,志津川)で91名(全国の2/3)の死者をだしました.これから51年後,明治を上回る規模になると予想される大津波災害が発生してしまいました.明治および昭和の場合と違い今回は昼間であり,また,最大震度7の激しい揺れが,津波到達の20~30分前に感じられました.地震のマグニチュードは9.0と超巨大で,海岸部での津波の高さは15mを超えたと推定され,最大到達標高も明治のそれを上回ったことでしょう.しかし,同じ海面波動である高潮とは違い津波の高さは何十メートルにもなり得るので,このような規模も想定内とし安全度の中に見込んだ対応が求められます.防災構造物の機能には限界があり,高い防波堤を縦横にめぐらせた地区も壊滅的な被害を被りました.1960年に大被害を経験した2地区は,今回1千を超える死者をだしました.
湾内では津波が増幅されることはよく知られていますが,仙台以南のような直線的な海岸においても大きな津波は生じます.遠浅直線海岸で到達限界標高が高くなることが,1983年日本海中部地震や1703年元禄地震のときの九十九里浜などで示されています.今回と同じ巨大規模であったと推定される869年の貞観津波は,幅10kmの仙台平野を広く水没させています.
自然災害への対応は,災害経験を積み重ねて構築していく教訓と知恵の体系です.しかし,貴重な教訓も時間とともに忘れられていくのが人間社会の現実です.前回の災害のときには被害を免れた,あるいは被害が小さかったということが,いわれのない安心感を与えてもいます.生活様式・経済構造の近代化や新規参入者の増加などによる地域社会の変貌によって,危険意識は薄められがちです.海岸施設・構造物やハイテク防災システムを信頼したいという住民の心情も否定できません.外力規模を小さくみた想定に基づく防災情報(ハザードマップなど)は,住民の判断・行動を誤らせる可能性があります.
積み上げてもやがては崩されるという賽の河原的現象を乗り越えて,防災の教訓・知恵を伝え広め根付かせるための継続的努力がますます求められます.大きな被災経験は危険意識を高め次ぎの被害を防止し軽減する最大の力になり得るので,是非とも活かさなければなりません.街の復興にあたっては,その土地が本来的にもっている災害危険性・脆弱性を最大限に考慮に入れた計画が必要です.
(2011.3.18)
写真:宮城県牡鹿郡女川町女川港付近(計画:国土地理院,撮影:朝日航洋株式会社,撮影日:2011/3/12)